バカたちと生きるという事

僕は頭の悪い人がとにかく嫌いだ。

それは知的レベルの潔癖症とも言えるもので、大人だろうと子供だろうと関係なく頭の悪い人が嫌いだ。最初はただの価値観の相違だと思っていたが、そうじゃない。

私は、バカが、バカである、という事を理解するのにおそらく相当時間がかかったんだと思う。無意識に「人が本質的にバカであるはずがない」という先入観、期待感があったのだ。どういう事かわかるだろうか…。おそらく自分より頭のいい人は私以上に同じように悩んでいるんじゃないかと想像する。

そんな私にとって最も困る状態が「自分がバカであることを理解していないバカ」達が大声で叫んでいる時で、一番扱いに困る。物事を相対的、客観的に把握する力、自分の論理が破綻している事への気づき、そういうものが総合的に欠如している。自分たちは正義だと思ってゴミやヘドロなどをまき散らし続けているのである。

例えば、小学校の頃、同級生だった中川君は、下校中にまだ水洗便所が行き届いていない部落で、くみ取り業者のオッサンに「おまえら社会の迷惑と思わんのか!」と言っていた。何回思い出してもカッコいい。一片の無駄もないダメな小学生だ。確か彼の母はスナックのママだった。彼は何をやっているのだろうか。

私はこれまで、その存在を認められなかった。バカは教育すれば治るものだし、努力すればリカバー出来るし、統制をとれば従うものだと思い込んでいた。僕は圧政の中でそうしてきたし、そうされてきたから。たったそれだけ。現実をゆがめれられて生きてきた。中川くんだって国語がすごく得意で辞書を1P1P暗記していた。しかし現実は残念ながら先祖代々親の代からバカは受け継がれているもので、そう簡単にはリカバー出来るものではない。地頭の良さとはよくいうが、地頭の悪さだってある。本人たちは本質的、本能的に自分たちがバカであることに気付いていないから、そこから這い上がる努力など沸き上がってこないのが普通だからである。

バカを美人に置き換えれば似たような事になる。2割の美人は8割のブサイクに支えられている。だが8割のうち上位のブサイクは自分がブサイクとは思っていない。ブサイクは努力すれば治るものだし、リカバーできると思い込んでいた。でも残念ながら、自分がブサイクであるとは思っていないので、治そうともしない。病気だとか欠損だとか思っていないから。

美人はなぜ美人なのか。ブサイクとの距離を相対的に把握しているからである。ブサイクとの境界を自分の世界で明確にしている。しかし消して口には出さない。あえて線引きを明示化せず、そびえ立ち、稜線を示すにとどめているのである。姑息な事はしない。

私は元来バカは頭が悪いのだから、踏み台にすればいいじゃないか、教育、統制すればいいじゃないか、そういう考え方だった。だがバカ達は圧政すると、最初は八方ふさがりで我慢しているのだがいつか反乱を起こすのである。それを知らなかった。ああ、そうか、「ゆるやかな統治」が必要だったのだ。君臨した独裁者はいつか崩壊する。

それに気づいたら、バカが論理破綻している「正義」を偉そうに振りかざしていようとも、「はあそうなんですね。」と言えるようになった。空間把握能力が頭の良さに比例するからといって、事細かにバカに説明する必要はないのである。そのかわり統制も行わない。やってもトラブルの元。なぜなら決して最後まで自分たちで合理的に解決しようとはしないから。放置していたしわ寄せを社会や賢者に無意識に押し付ける。ただ刹那に生きているだけなので、捕まえようとすると牙を向いた羽虫に化けるだけである。糞虫だと思っていたものが、僕の中では飛んでいる蝶蝶に昇華した。蝶々やトンボとなら捕まえずに眺めて暮らせる。そう思った。僕は一生懸命ゴキブリを退治しようとして家を焼いていたのだ。あれは全部無駄だったのだ。僕は無理に鳥にならず、虫としてとにかく生きていければいいやと思うようになった。そのくらい適当でいいや。

こうやってバカは伝染していくのだろうか。